【所在地】 |
| 広島市西区己斐東1丁目2-13 |
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【概要】 |
| 広島でキリスト教の伝道が1559年に始まり、1613年末徳川幕府の禁教令により、キリシタンの取り締まりが厳しくなり、宣教開始17年後(1616年)最初の殉教者がでた。 その後も厳しい迫害と弾圧が続いた。峻烈な拷問にも屈せず、信仰を全うして天国に召された方達の史実を記録し、付近に当時刑場のあったこの地に、1984年2月12日殉教の碑を建立した。 |
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【行事】 |
| 毎年2月11日 広島キリシタン殉教祈年祭
殉教碑前で祈りと聖歌を捧げ、観音町教会まで15分ほど徒歩巡礼ののち 殉教祈念ミサ・講演会・分ち合い |
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【問合せ先】 |
| カトリック観音町教会内 広島キリシタン殉教者顕彰会 |
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「この児はどこの児,麹屋の姥の児,尻をまっかに焼いてやれ」このわらべ唄が古い昔の広島のちまたに唄われていた。このわらべ唄に心を引かれたH・チースリク神父(芸備キリシタン研究家)によって、「己斐の河原」「才が谷」でキリシタン殉教のあったことが明らかにされた。 この事は多くの人たちに衝撃を与え,この地を聖地として後世に伝えたいとの思いから、使徒を始め地域の人たちによって「キリシタン殉教の碑」が建立された。この碑には,ラテン語で「Semen est Sanguis Christianorum(初代教会の言葉)」と刻まれている。「キリスト者の血は一粒の種子である」という意味である。 碑の前で,祈りを捧げる巡礼者や花を供えてくださる人達の姿が見られ、己斐の町に馴染んでいるようである。 殉教者に続く私たちは、遺徳を偲ぶと共にその証し人として、キリストの愛に応えなければならない。
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